CONTENTS
現在満枠のためご新規様のご相談は7月以降のご予約となります。

こんたの生い立ち– BIOGRAPHY –

この記事はかなりのWordPressフリークなホームページ屋さんになった今田(こんた)が、お客様に知ってほしいと思ったこと日々の気づきなどを徒然なるままに書いているホームページの制作&運営に関するメディアサイトです。
今、見てくださっているあなたのお役に立てるコンテンツがあれば幸いです!

こんたホームページ製作所 今田紋奈
今田紋奈

埼玉県で育ち今もなお住み続ける寅年蠍座女史。ちなみに1986年生まれ。
動物占いは新しいもの好きな黒ひょう
旦那はライオン、娘がオオカミという猛獣一家で暮らしています。
現在は在宅エンジニアが生業で、その他に母、妻、フリーランス在宅フロントエンジニア、娘(実母と同居)、ひとりの女性という複数のステータスを持つアラフォーとして生きてます。
ここ最近は、自分磨きとスキルアップに奮闘中。  

目次

はじめに

このホームページは「あなたの今のWeb集客やパソコン、ホームページ制作におけるお悩みや困りごとが1つでも解決へ導ければ」という想いで立ち上げました。

わかりやすく&使いやすく

運営者にとっても、そのお客様にとっても見やすい探しやすい使いやすいサイトをご提供できるように、私の得意とするWordPressにてホームページ作成していこうと目下設計、構築中です!

でもその前に、こんたさんってどんな人なの?
という方には是非私のことを知ってもらいたいなと思います。
よければご一読ください。

KONTAのことがわかる10のこと

私はコーディング(ホームページを半角英数字で組んでいく謎のコードというあれをひたすら書く仕事)を得意とする、かなりのWordPressフリークなエンジニアです。
フリーランス歴は2017年に独立して現在4年目。
娘が小学生になるまでに「こどもの帰りを自宅で待っていてあげられるママ」に、簡単に言うと在宅ワーカーになりたくて2017年9月に31歳で脱サラしました。

だから私は理想の働き方やライフスタイルに合わせて集客できるのか。
どれだけ起業さんの時間を確保しながらホームページという最高の集客ツールで売上に貢献できるのかという視点で、ホームページ制作を請け負っています。

  1. 大事にしていることは「世界観」「時間」
  2. WordPressでサイトを制作するのも使う(運用する)のも好き
  3. コーティングが爆速(フロントエンドが得意)
  4. 少女漫画大好き。これ無くしては幸せじゃない。
  5. 食べることが幸せ(早大食い)・珈琲は至福
  6. 何かに没頭するとお迎えを忘れるくらい集中力高め
  7. 人やビジネスの調査、研究が好き、なんでも最適解を求めるタイプで人間観察はライフワーク
  8. 検索からの検証・解決、知見を広めることが好き
  9. おひとりさま時間は必須
  10. 人との距離感が基本的に近い

こんな私ですが、気づけばエンジニア歴12年。
WordPressに特化した、ホームページ制作実績が2,500サイトを越えました!

自他共に認めるWordPressフリークなので(笑)
WordPressのことだったら、何時間だってお話しできます!
ウェブ検索、検証も好き。というか解決することや、予定調和が好きなんですね。

KONTAの感じること

ときめくこと

  • 自分で選ぶことの出来る自由さ
  • スッキリしている(整理されている)こと
  • 人とはずれた「世界観」
  • 将来の展望が重なった時
  • 感性の近いデザイナーに出会ったら悶絶もの
  • 良きなツールに出会うとテンションMAX
  • 何かと何かをまとめる(人を繋ぐこと、一元化できること)
  • 時間軸が合う人とつながった時

好きなものは?

小学生の頃から少女マンガがバイブルの根っからの妄想思考。
もはや「女として」のあれこれとか「人となり」全ての選択や思考がこれからきてる。幼少期から世界観とか人間関係、ドキドキすることが私の中では生きる意味なのかもしれない。  

加えて家電や最新機器、アプリ、ツールオタク。
最近は自宅のリフォーム中でインテリアを見漁ってて、アイアンの脚線美選びで何時間も使う人。
サイズも結構こだわり屋。収納用品とかぴったりが見つかるまで買えないし、コーディングにおいても余白が均等じゃないと気が済まない人。  

ゆるむこと

  • こどもと何も考えずに遊べる自分な時
  • スケジュールに余白があること
  • 湯船に浸かりながらの思考整理
  • 旦那との会話がスムーズなとき

いやだなと感じること

  • スケジュール調整が効かないこと
  • ごちゃごちゃしたもの
  • 人の私の周囲への欲(ワガママ性とか金銭面)を感じた時
  • 待たされること

社会人経験はある?

父親を中学生で亡くし、私は看護師になるんだ〜とぼやっと思っていたから高校卒業後看護専門学校へ行ったのね。でも合わなかった。
まず奉仕の精神がちょっと足りない。田舎から出てきて寮生活しているような真面目な学生の中で浮いてたと思う。

その頃「お水」という世界をひょんなことから体験。そのままデビューしてもうこれは、私の天職だと思った。

キラキラな世界、ヘアメイク、ドレス。
大好きな人とのおしゃべりに人間観察、美味しいものが食べられる環境と頑張りが全て数字で評価されることはもうなんだろう。全てが詰まった宝箱のような毎日だったなと思う。

毎日ワクワクしながら、色々試行錯誤して。
人間観察力というか察知力?コミュニケーションスキルはこの頃格段に上がったと思うし、経営者脳というか独立思考がインストールされたと思います。

生い立ち(長いです)

1986年 11月生まれの蠍座の女

同年11月8日、東京医科歯科大学病院で産まれました。
寅年の蠍座です。
3,700gの結構大きめな赤ちゃん。

父親は不動産の営業、母親はタイプライター。
そんな夫婦のもとにやってきました。

父はパチンコに麻雀、ゴルフにスキーと好奇心旺盛で多趣味な勝負師。
若い頃はアメリカに行けると言う理由で会社を選んでしまうほどフットワークの軽い人。

反対に母は、15歳から働き苦労してきたタイプで。
その分娘の私にいろいろなことが出来るようにと多くの習い事をさせたり、一般常識や世間体と言うことにとてもこだわる厳しいタイプの母でした。

そんな夫婦の間に生まれた私は、こんな風に育ちました。

動物占いは黒ひょう。(旦那はライオン、娘がオオカミという猛獣一家で暮らしてます。)
パーソナルシードは、θ1-α3-β1

CENTER:θ1 パイオニア

いつでも青春まっしぐらな時代の最先端を進みたい。青少年少女の気質。
昨日より今日、日々新たなりと新鮮さを求めて生きていく特徴がある。大人になりたい背伸び願望とセンシティブな感性が同居している。

FACE:α3 ジーニアス

型にはまった生活を嫌い変化にとんだ気楽さを楽しみたい自由人自由奔放を望みながらも安心したいという気持ちも同居している。
また、無から有を生み出す創造の天才。気分が乗っているときとそうでないときの差が激しい。とっさの状況判断能力が優れている。意外と寂しがりや。 面倒なことが苦手。努力や根性という言葉は辞書にない傾向がある。

EMERGENCY:β1 ムードメーカー

目の前のことに全力投球、サービス精神旺盛なお調子者。
とっさの状況判断に優れ、瞬間瞬間の勝負強さを備えている。GIVE&TAKEの駆け引きが得意。 人の気持ちを察するのがうまく上手に場の雰囲気を盛り上げる。

1989年 保育園入所、人間関係という社会に触れる。

地元川口市の保育園に入所。
幼稚園でいうところの年少さんの年である3歳から社会にデビューしました。

スポーツ万能タイプのイケメン?の男の子に恋をしたり。
ニコイチで一緒にいたいタイプの女の子に好かれ、あちこちで遊びたい私は彼女のヤキモチからその子に引っ掻かれたりとかしてるようなタイプでした。
それでも「その子とだけいよう。」とか全く考えられないような天真爛漫タイプだったので今でも付き合いのある友達は数は多い。全員と深く付き合うとかではないけど、何年たっても気軽に連絡しちゃうタイプです。

この頃から、習い事を始めたりしました。

スイミング、バレエ、お習字、英会話、ピアノなど、本当にたくさんの習い事をさせて貰いました
今、自分が親になってみて気づくけど、トータルすると結構な額のお月謝になってたと思います(笑)

1993年 小学校入学

同じ保育園からの友達は少なく、同じ町内会の子供しかいない状態で小学校に入学しました。
保育園は基本的に、1学年10数人しかいないから、1学年100人以上いる学校と言う社会が衝撃だったのを覚えています。

小学生の頃から少女漫画がバイブル。
美容、オシャレ、人との関わり方などの全ての基本はこれで学びました(現在進行系)。
幼少期から、「世界観」や「人間関係」のトキメキが私の中ではかなり重要視されているのでしょうね。

この頃の人生の楽しみはワクワクキャンプ合宿

習い事の中でも特に好きだったのは、スイミング。
これも泳ぐのが好きと言うよりも、夏休みや冬休みのキャンプ合宿が好きで続いてた。

コーチ達と子供だけで、いろんな地方に行ってバーベキューをしたりキャンプをしたり、遠泳をしたり。

兄弟のいない私にとって、年に数回くるこの期間は、年上や年下の人たちと、親の見張りなく羽を伸ばして最高に楽しめるとってもワクワクする時間でした。

夜に先生の目を盗んでお兄さんお姉さんと抜け出してみたり、バスの中で当時流行っている歌を踊り狂いながら歌ってみたり。
アホなことをするっていうのがとっても楽しかった。

小学3年生の担任が見た目がめちゃ細くてか弱いのにめっちゃ最強だった話

2年ごとに担任が変わるシステムだったのね。
そんな中で小3の時に担任になった先生が、見た目はガリガリなパンチパーマベリーショート。

いつも真っ赤な口紅で、筋の通ったオーラのある先生だったんだけどね。

小学校3年生の子供たちを、1人の人として扱ってくれるすごく情が深い先生だった。
今思うと元ヤンだったんじゃないかと思う(笑)

その先生のクラスは、毎月誕生日会を子供たちが企画してやるっていうのがあって。
コレが今もかなり鮮明に覚えてる。

だけど自分のためにやってもらった月のことではなくて、友達のために準備した記憶の方がたくさんある。

学校から帰ってきてからとか休みの日に、友達の家に集まってあーでもないこーでもない話し合って。
劇の準備だったり発表するものの企画だったり、子供ながらに友達とのその時間や誰かの為に何かを作ると言うことがとっても楽しかった。

小学5年生、周囲の女子との不仲に

小学校5年生の女子っていろいろなことに多感になる時期ではあるんだけど、私は習い事を多くしてたことに加えて門限がとんでもなく厳しくて。
学校が終わってから友達と遊ぶっていう、今思えば1番大切な時間がとても少なかったんです。

さらには夜も早く寝ろって怒られるから、次の日に友達との会話で必要な連続ドラマの話もミュージックステーションの話にもほとんどついていけなかった。

今みたいにYouTubeとかがあれば、追いかけて観ることができたかもしれないけど。
当時はそんなツールもなかったからね。
ついていけるのは少女漫画のリボンの話ぐらい。

もしかすると、
だから今も少女漫画が手放せないのかも。

人間関係とか言葉とか、感受性に関することについて学ぶのは大体ここから。
ファッションや髪型だってそう。

少女漫画は、私の人生のバイブルできっとおばあちゃんになっても読み続けると思う。
しかも学生時代の話ばかり読んでしまうっていうね(笑)

今の子たちは世間話のネタが豊富で、コレ!って流行りに縛られないのはちょっと羨ましいなと思う。

小学6年生、中学受験のはじまり

家が近所の友達が当時有名だった日能研という、中学受験のための塾に通っていたの。

それでなぜか母が興味を持って、学校見学っていうのに一緒に行ったのね。
そしたら、私の見た世界が衝撃すぎて。

見に行った学校は、門構えからすごくて中に入ると目の前には広い食堂。
学校の中に大きなホールがあって、エレベーターも付いてる。
上に上がっていくと、構内はすべて絨毯が敷き詰められていて職員室のドアも教室のドアもかわいい色で。

私はこの学校に入る。
そう決めたんだよね。

だってあまりにも、少女漫画で見ていた世界が、目の前に現れたそんな感じだったから。

それを決めたのが5年生の終わり。
その学校に入るには、もちろん入学試験をパスしないといけないから私は四谷大塚という友達が通っていた日能研の斜め前にあるこれまたもう一つ大きな受験対策の塾に通い始めました。

春季講習や夏季講習、日々の学校から帰ってきてからの塾の授業。
その塾自体もとても綺麗で、実験室とかもあったり。
後は近くにあるお煎餅屋さんに通ったり。

勉強してたのかなって位、楽しかった思い出ばっかり。

いざ受験前になって、私受かるかな?て言う風な不安に押しつぶされそうになった事は覚えてるけど。
(自信が持てるほどの努力をしてないと感じてたから、そりゃそう 笑)

でもこの頃から算数はとっても得意だった。
だから国語とか他の教科は平均点、算数だけでも高得点をたたき出して合格してやる作を心の中で決めてた。

受験当日、奇跡的に私の得意とする食塩水の問題がたくさん出て気づいたら合格してた。

有名な塾に通っていた友達は、4年生位からコツコツ勉強してたからこその実力だよね。
普通に、同じ中学校の特待生として入学していました。

1999年 中学入学、ここでも勉強より恋愛

入学してから何してたって、恋してるか恋バナかもしくはカラオケ。
そんな毎日でした。

部活も可愛い先輩が多いからという理由でバトントワリング部に入部。
安易に入ったら全国レベルで超厳しかった!!

そんな学生生活を送りながら、門限を破ってでも友達とあそぶために、厳しい母をごまかす毎日。
友だちと遊べないとまた一人になるって小学生時代に学んだからね。

なのに中学校でも女子との間で亀裂。外の世界とつながり始める

中学時代によくあるハブられ役が順番にまわってくるアレが私の番に(笑)

その頃(120cmルーズソックスに大きめリボンが流行った時代)から、他校の友だちが増え始めました。
行動範囲も学校近隣からブクロ(池袋)とか原宿渋谷に広がっていった気がする。

芸能人になりたくて事務所に入った時期もあった

色んなことに興味津々でかなり暴走してた時期。

友だちがスカウトされてアイドルになって遊べなくなって、私もやってみたーい!ってこれまた安易なノリで面接に行った。

そのまま所属してダンスレッスン受けたり、撮影に行ったりしたけど続かなかったなぁ・・・

高校はそのままエスカレーターで進級

高校2年生で転機、一生の友だちに出会い過ごす。

この友だちとだけ!っていうのがそれまで全く経験がなかったんだけど、、

この時期に特進クラスを選んで高校から入ってきた子たちと同クラに。そこで、今もずっと付き合いのある大事な親友たちと2年過ごした。

今でも友人達は、こんな私の理解者であり指導者です。
大人になると厳しいことも言ってくれる友人は本当に貴重。

取引先でも家族でも、友人も。
こういう人たちを大事にしていきたい、それができる自分でいたいから頑張れる。

2006年 看護専門学校に入学するも1年で中退

中2の時に父親が末期癌で他界して。 なんとなく母の「男がいなくても生きていける、世の中に認められる手に職を」という想いを踏みにじれなくて看護学生になりました。
(ほんとは、美容師になりたかったけど反対されたので断念。)

入学後一人暮らしを始めて、夜の世界に足を伸ばし、気づいたら水商売優先になってしまってて、結局夜の世界を選んだ。

看護学校入学と同時期の10代後半、水商売という仕事に出会い、「話すこと」「人間観察」「スタイリッシュな世界観」「オシャレ」「美味しいものが食べられる環境」「がんばった分増えていく収入」そのすべてがありこれは私の天職だと感じた。
人間観察力とコミュニケーションスキルがこの数年で格段に上り、経営者脳がインストールされたのかと思う。

それにより、本気でてっぺん取ろうと専門学校は中退。
今でもなんの後悔もしてません。

昼間は普通にアルバイト、夜はキャバクラでアルバイト

昼間は色んなアルバイトをしてました。

マツキヨ、ムラサキスポーツ、アクセサリー屋さん、パチンコ屋の定員、派遣で事務員してみたり

他にもいろいろ・・・この頃はやってみたい仕事を片っ端から体験してたなって思う。
人生楽しむために働くの、この頃から変わってないかも。

週6~7の本気の水商売、この経験は起業に役立った。

いつからか、水商売がアルバイト感覚じゃなくなって本気(マジ)になってた。

No.1を維持するためにお客様ともお店の女の子も、男子スタッフともオーナーとも、コミュニケーションとりまくってほんとに充実した毎日だった!

その分付き合い飲みもかなり増えて夜遊びも充実してた!

お水からの卒業、そして社会人デビュー

同級生たちが4大を卒業する年。
私も表の世界でちゃんと生きよう、生きたいとおもい水商売を卒業しました。

その時一緒にいた彼氏が色々注意してくれたりサポートしてくれて、ほんとに今でも感謝してる。いなかったらまたお水に戻ってたと思う。

オーダーキッチン・オーダーカーテンの会社就職

初めての社会人デビューは、オーダー家具のパースを書く仕事でした。

設計された図面からサイズをひろって、どう見えるかという絵にする仕事。
これがとっても楽しかった!

だけど暴力というパワハラで1年で退職・・・
パースを書く仕事は好きだった。今もやりたい。

無垢リフォームの会社に転職。事務・経理・接客販売・企画を経験

某リフォーム会社のある支店で色んな業務をこなした。

Windows95とかから触ってるPCオタクの私は、事務系仕事は朝2時間で終わるといういい環境で。
毎日、残りの時間のほとんどをイベント企画や雑貨販売のPOPづくりでめいっぱい楽しんでた。

そんな中で、この職場でWeb業界への大転機がやってきた。

インテリアデザイナーの先輩が私の「現在」Web業界で働く人生をくれたんです

ある時、「DTPに興味無いの?」って聞いてくれたんです。当時の私は???でしたが(笑)
すぐに検索したら紙関係のデザイナーという仕事でした。

面白そう!と興味がわいてスクール探しを初め、その日のうちに3つの学校の見学に申し込み!
申込み当日に行ける学校にまずは行ってみると・・

これからの時代、紙よりもWebですよ?と担当者さん。

当時で約70万位のWebデザイン実践コースに、その日のうちに申し込んで帰ってきました。

  • 競合調査やワイヤーフレーム
  • SEOの基本
  • Photoshop、IllustratorなどのAdobeデザインツールの使い方
  • Dreamweaverを使ったコーディング方法

こんな講座でした。

今思えばほんと基本のキな部分だけだったけどね。
月給15万のサラリーマンをしながら、給付金を使って少し減額して自己投資をしました。

2010年 未経験でITベンチャーへ就職

Webスクールに通い始めて、4ヶ月でベンチャーに転職しました。

スクールに通いながらfindjob!で未経験OK求人を日々あさり、溜池山王にあるアークヒルズと言われるオシャレ〜なオフィスで働くべく面接に!今でもリアルに面接の時の情景を思い出せるのにもう10年以上前だなんて・・・笑

晴れて、Web製作者デビュー!!と思いきや・・・

未経験でWeb制作会社へ営業事務兼Webデザイナーとして就職したものの、デザインは私はほぼ出来ない(センスと才能が皆無なんだ)と知り。
楽しすぎたエンジニアの道を選択。

でもこれが、ゲーム攻略の如くこの未知なる道にどっぷりハマる。

でも、未経験入社1週間で先輩のいない製作者に。

入社して色々教えてもらえる!と楽しみにしてたのもつかの間・・・
唯一いた先輩が1週間後に退職すると?!?!

その1週間でhtmlのWordPress化をサーバーにデータベースつくるとこから頭に叩き込んだ!

HTML・CSSの基本のキぐらいのレベルで転職し、その後はもう怒涛のWebでGoogle先生に聞いて調べて実装、検証の繰り返し。気づけばドメイン・サーバーエンド、WordPress、php、javaScriptなどのフリーランスでやっていけるレベルまでを習得したのは自分でも驚き。

私を助けてくれたのは全国のGoogle先生

Adobeツールの使い方も、コーディングもWordPressの仕組みやPHPも。

全て画面の向こうで同じ問題を乗り越えた先生たちの記事が、私の師匠であり拠り所でした。問題解決力はおのずと身についたよね。

何度も言うけど、ほんとに朝から夜中まで調べ解決しての繰り返しだった・・・

気づけば5年経ってて、いつのまにかのべ50人以上の後輩に教えてた

途中1年、私が神と崇めるスタッフが入社してきてその人からもらえるスキルはもらえるだけ頂戴した。

その前も後も合わせると、ぐるぐる入れ替わる制作スタッフ50名以上に色んなことを教えてたなぁ。
営業さんたちにも怖がられてたと思うくらい会社に愛着があったんだ。

2013年 仕事も落ち着いてきた頃

当時付き合っていた彼?にプロポーズされ結婚。

この人と付き合うのかなぁと思ってた親友みたいな男性に突然の黒歴史を聞かされた挙句プロポーズされ。様子見からの・・・半年で結婚を決めまして、気づけば結婚式の日取りも決まってました(笑)

結婚式の準備が佳境な中に今度は・・・

式の準備が進む中妊娠発覚!

妊娠したことは嬉しかったんだけど、妊娠期に三半規管がおかしくなり電車に乗れなくなってしまって・・・そのままリモートワーカーデビュー。
在宅ワークってあの頃はまだフリーランスの人くらいでそこまでいなかった気がする。

人の目効果のない、在宅ワークの大変さを痛感しました。

産まれてからの日常は、おんぶしたまま仕事と家事

よく見る広告のように抱っこして笑ってリモートワークなんて、現実には全くなくて!

実際はあぐらかいて抱っこ授乳しながら、首が座ったらおんぶで必死に保活しながらコードを書きまくってました!
保育園が決まるかは、ほんとにかなりの死活問題だった。

無事保育園は決まった!と思ったけど・・・あの洗礼

娘は0才さんからの保育園入園。

最初の1年は、噂に聞くままでお迎えコールが鳴り止まなくて、埼玉北部から通勤電車で麻布十番まで片道2時間の道を通い、会社着いたと思ったらお迎えに帰るとかそんな日々ザラにありました。当時の私、そして周りのママ本当よくやったよ。

そんな保育園生活がやっと落ち着いてきた頃・・・

地震で電車が止まり!全然お迎えに行かれない恐怖が

地震が頻発して電車がよく止まってて不安でしかなく。
そんな時に輪をかけて、小学校の学童も定員に達しているとの噂が飛び交ってた。

家で働きたいからこの仕事を選んだんだってことを思い出し、ついに起業を決意!

起業を決意してからは、根っからの思いつき行動力で・・・

SNS運用でのWeb集客、アメブロで認知を増やす講座、起業コンサルを受けに行ったり。
ほんとに活動的に起業や独立について勉強しました。

でも下手にWebの知識があるもんだから、なかなか納得して進めることができないなどいろんな壁がありながらもついに退職の意思を会社に伝えました。

そこから1年かけて、引き継ぎや私がいなくなってもいい状態にして2017年8月に退職。

2017年9月 起業(独立開業フリーランスへ)

2017年9月、子育てとの両立を考えたことで小学校の学童問題にビビり、在宅ワークをしたいという想いから30歳で脱サラ起業を叶えました。
どうしても、小学校に入ったときに自宅で娘の帰りを待ってられる環境にしたかった。

それを叶えることができたのは、起業当初からコーディングやWordPressという知識があったから。

当時起業家さんたちは、ワードプレスを使ってホームページを作りブログを更新する人が多くて、そんな中でも気軽に相談できるコミュ力の高いエンジニアは起業家畑にはあまりいなかったんですよね。

ほんとにラッキーだったんだと思う。

2018年 キラキラ起業家に憧れる?

憧れと言うよりも「ならなきゃいけない、ならなきゃ売れない」と思っていました。
わたしの起業した当時は、起業家の自撮りがFacebookのタイムラインを埋め尽くすような時代でした。
中でも売れている人は「キラキラ感」がすごいんですよね。アメブロも1日5投稿、Facebookも1日5投稿するのが当たり前、そうじゃなきゃサービスは売れないという風習がすごかったんです。

実はネット上の特にSNS起業って、ガラパゴス携帯(いわゆるガラケー)なのかもって気づき出したのがこの時期です。
ホームページ制作をしていたわたしにとって、最新情報は常に取る必要があったのでその次代のマーケティングは起業家界隈では詳しい方だったっと思います。

だけど、実際に成果を出して売れている人たちのやっている施策が「あれ?これ2年前くらいのマーケティングじゃない?」って思うようになったんです。
そりゃそうなんですよ。2年前からやっているからその人たちは売れてるんです。

だから、2年後のこのときにそれを教わって実践する人の多くは売れない。

そこに気づいてからやっと、わたしの本格的な起業戦略がスタートしました。

2019年 複数の制作会社と提携

個人起業家さんたちを助けたい想いはあれど、わたしも子を持つ親なので結果にならない事業を展開し続ける余裕はなく、安定を取りにいきました。

フリーランスは営業も事務も経理もしながら、実際に技術も提供するという本当はとてもハードな働き方です。
その中でどうやって安定して案件を取り続けるかという課題を模索し続けていました。

ママワークスというママ向けの求人サイトを使ったり、クラウドワークスで仕事を探したり。
同時進行で地域の創業支援センターに相談に行きながら、法人会やそれに近いリアルなコミュニティーで人脈をひろげて案件を取りながら、今までお付き合いのある起業に挨拶まわりをしたりして。

末永くお付き合いのできる、法人様とお仕事をする形になっていきました。

2022年 現在

現在は「母」「妻」「ひとりの女性」「在宅ワーカー」「エンジニアという技術者」として、5つの顔を持つアラフォーとして生きています。

長い間、いろんな制作会社様とお仕事をしてきた中で生まれた「本当に結果の出るホームページ集客ができる、起業家やお店の伴走者になりたい。」という想いから、自社でそういったサービスを展開できるようにと奔走しています。

目次